LOGIN寝室で、麻奈と蒼生は互いに相手を見つめていた。
麻奈はベッドに腰掛けたままの蒼生を見上げる。眉間に刻まれた皺、落ち窪んだ目、一晩で憔悴しきった蒼生の顔。その真っ暗な目が静かに麻奈を見下ろしている。 蒼生が立ち上がった。ゆっくりと床の上に座る。正座をする麻奈と視線を合わせるように胡座をかいた。 沈黙。 寝室は光を増し、外には陽射しがこぼれ始めた。 「……どう……謝っていいのか……わからない」 蒼生が呟く。暗い瞳が揺れる。 「……言えなかった」 「そうね。言えるわけないわ」 麻奈は蒼生を見据える。 「言わなければ、あなたはずっとお人形を持っていられたんだから」 蒼生ははっと顔を上げた。 「ちが……」 「違わない」 麻奈の目が鋭い光を帯びる。 「あなたは沙雪さんの身代わりと沙雪の持っていた片手桶と柄杓を蒼生が受け取り、それを管理事務所へ戻すと、二人は墓地の中に影を作っている東屋へ向かった。緩やかな風が吹き抜けるが、暑さは変わらず立ち昇っている。「蒼生、何か冷たいもの飲む?」 片隅に置かれた自動販売機の前で沙雪は振り返った。「え? いや……俺は……」 蒼生は慌ててポケットを探る。が、小銭など入っているはずもない。財布を引っ張り出したが、入っているのは数枚のチケットと個人用のブラックカード、ビジネスプラチナカードのみ。「奢ってあげるわよ。コーヒーでいい? 無糖よね?」 財布を開いて困り果てている蒼生を見て、沙雪は笑うと自動販売機に小銭を押し込んだ。「はい、どうぞ」 受け取った蒼生の左手に光るプラチナの指輪に目を走らせると、沙雪はにこりと笑って蒼生の隣に腰かけた。「まだ暑いわね」 空を見上げる。風が吹いた。墓地のあちこちから樹々の葉ずれが聞こえる。「……そうだな」 蒼生は揺れる黒髪を見ていた。艶やかな、背中まで垂れた黒い髪。儚げな細い体。白いレースと淡い色の翻るシフォンのワンピース。優しげな笑みを浮かべて俺を見上げる、あの……俺が忘れきれなかった、あの日の——「……沙雪」 手にした缶コーヒーを握りしめる。もう汗をかき始めたそれは、蒼生の手のひらをしっとりと濡らした。「……あのプロポーズ……俺は半分本気だったんだ」 沙雪は空を見上げたままだった。照りつける光の向こうに広がる真っ青な空を見ている。さら、と黒髪が揺れた。「……知ってた」 目を落とすと、缶コーヒーのプルタブを開ける。カシ、と小さな音が響いた。「蒼生の気持ち、私、知ってた」 一口飲むと、それを脇に置き、沙雪は蒼生に微笑んだ。「だから私、自分の気持ちをきちんと見せなくちゃ、って思ったの。嘘をついたり、ごまかしたりなんてしちゃいけないって。私……ずっと間宮が好きだった。他の人は考えられなかった」 蒼生は手の中のコーヒーに目を落とした。口の片端を上げてふっと笑うと、プルタブを引っ張る。「……うん、知ってたよ」「知らなかったのはあの人だけ」
蝉の声があちこちから湧き上がり、茹だる空気を切り裂いていた。ようやく蝉も鳴けるだけの温度になったらしい。 潮の香りを乗せて微かに風が吹き抜ける。花を置き、手を合わせる蒼生をかすめて線香の煙がゆらゆらと流れて行く。——間宮家代々の墓—— 数日かけて予定を調整し、蒼生はここへ来た。目を上げると、目の前の黒い御影石を見つめる。「……間宮……お前、本当にここに眠ってるのか?」 頭上高くに昇った太陽が容赦なくあたりを照りつける。墓石はただ黒く光っていた。蒼生がかけたばかりの水も、もう乾きかけている。 蒼生は立ち上がった。墓石の周りに敷かれた砂利がざくっと音を立てて蒼生の足を飲み込む。蝉の声だけがいっそう響いた。「……いい街を選んだな、間宮」 小高い丘の中腹に作られた墓地から港が見える。並ぶ墓石の向こうに見える遠くの海と空は白く霞んで溶け合い、停泊する船や倉庫を背景に、墓地のすぐ下まで住宅地が広がる。 全体を山と丘と海に囲まれた、静かな街。「……研究所、大学、高度専門病院もある。臨床や実証環境が揃ってる。ベンチャー企業の支援も手厚い」 蒼生は墓石を振り返った。「お前、あのがん早期発見の検査薬の開発、携わってたんだろ? 違うのか?」……分子生物学。細胞外小胞の分泌機構。マイクロRNAの機能解析。「……少し見てみたぞ。お前の研究、どんぴしゃだったじゃないか。関わってないはずないよな……?」 荒ぶる太陽の熱を持ったまま静まりかえる墓石に手を伸ばす。「どうして開発チームに名前がないんだ? 記者会見にもいなかった。……お前……間に合わなかったのか? その前に……逝かなきゃならなかったのか?」 陽を浴びて焼ける黒御影石に触れると、ちり、と熱が蒼生の指を刺した。「唾液からがんの早期発見ができる検査薬なんて……世界的な発明だぞ。お前だって関わりたかっただろう? 理学部生命科学科、基礎研究からの応用開発、お前ならできるだろ?」 蒼生の表情が哀しげに歪んだ。口元に笑みが浮かぶ。「それとも……お前……持ち前のあまのじゃくを発揮して、別の研究でもしてたか? 何か、別の、すごいやつを」 バ
風が止んだ。暖められたビルの壁や地面から噴き出す熱がそこここに澱む。陽炎がゆらゆらと景色を歪める。 麻奈は、吹き出す汗をハンカチで拭うと、早野に指定されたホテルのロビーへ入った。途端に、ひんやりした心地よい空気に包まれる。「アイスコーヒーください」 ロビーラウンジの一席に腰を下ろすと、麻奈はバッグから通帳を取り出して考え込んだ。 今朝、神崎の家を出るときにこれだけバッグに入れた。しばらく戻るつもりはなかった。今夜はどこで眠ればいいのだろう。「……ビジネスホテルか、ウィークリーマンションか……」 残高をじっと睨む。少しの間なら困ることはなさそうだ。少しの間だけ、なら。「……もしかしたら……アパートを借りた方がいいかも……」……離婚ってこともあるから。 空になったグラスに水が注がれ、アイスコーヒーが目の前に置かれた。手を伸ばしたとき、早野が覗き込んだ。「奥様、お待たせしましたか?」「いいえ。私も今来たところ」 早野から電話が入ったとき、少し迷った。蒼生なら出ることはなかっただろう。……でも、早野さんなら。何か……大事な話があるのかもしれないから……。 早野は麻奈の向かいに座るとアイスコーヒーを頼み、水を一口含んだ。柔らかな笑みを浮かべて麻奈を見る。「お疲れでしょう。休めるところはありますか?」「……い……いえ……」 急に何かがぷつんと切れて、麻奈はうつむく。シェフが作り、工藤が目の前に置いてくれたマンダリンオレンジのドリンクを思い出す。……あれが……飲めたらいいのに。「今日、明日とこのホテルを取っておきました。デラックスシングルです。少し広めの部屋ですから、ゆっくりできますよ」 早野はにこりと笑うと、キーをテーブルに置いた。「チェックインは済ませておきました。いつでもどうぞ」「……あ……の、でも……」 慌てて首を振る麻奈に、早野は笑ってみせる。「それから、奥様の口座を教えていただけますか。当座に必要なものは振り込んでおきましょう」「え?」 早野はテーブルの上で手を組んだ。「……少し……長引く場合もありますし、ご入用の
すっかり明るくなった空では太陽がじりじりと地上を焼いていた。今日もひどく暑くなる。 ベッドの脇にうずくまり、動かなくなっていた蒼生に、工藤が寝室の外から声をかける。「おはようございます。お迎えの車が参っております」 止まっていた蒼生の時間にひびが入った。ゆっくりと頭を上げる。虚ろな目の焦点が合い始める。……行かなくては。今日は取締役を呼んで戦略会議がある。「……15分待たせてくれ。すぐ行く」 頭を振り、強張った手足を伸ばし、ベッドの端を掴んで立ち上がる。 シャワーを浴び、着替えると、頭を下げる工藤に軽くうなずいてから、蒼生は玄関先で待っていた車に乗り込んだ。「おはようございます、社長」 早野が頭を下げ、持っていた予定表に目を落とす。「今日のご予定は……」「取締役会議以外は延期してくれ」 蒼生はシートにもたれると左手のヴァシュロンをちらりと見る。「遅れてすまなかった。遅刻だな。支障は?」「ございません」「よかった。早野、至急で頼みたいことが二つある」 後部座席にもたれたまま、蒼生は軽く肩を回した。「一日予定を空けられる日を作ってくれ。それから、麻奈に連絡を取って、しばらくの生活を整えてやって欲しい」「……と、申しますと……?」 早野は手にした書類から顔を上げた。「……出て行った」 蒼生は片手を伸ばして早野の手から書類を受け取る。「行くところがないだろうから」 沈黙。 書類に目を落とす蒼生をしばらく見つめてから、早野は静かにうなずいた。「かしこまりました」……出て行った……。 秘書室のデスクに戻ると、早野は考え込んだ。……解決できなかったということか。 自分のマンションに来た時の麻奈の顔を思い出す。……一生懸命になって。頼れるのは俺だけだっただろうに。 椅子を少し下げると、片足を組んでスマートフォンをスクロールする。レセプションの際にドレスを作った。あの時に麻奈の電話番号を入れてある。……真相に気づきながら放置したのは俺、ではある。
「二度と沙雪の前に顔を見せるな……!」 間宮の声が蒼生の耳に響いた。 麻奈が後にした眩しい光の溢れる誰もいない寝室で、蒼生は目を閉じる。 あの日、夕陽の射し込むひと気のなくなった学食で。間宮は沙雪を腕に庇い、俺に憤怒の視線を向けた。金色の陽に照らされた間宮のまっすぐな瞳。あいつの腕の中で傷ついた顔をして、それでもそっと間宮の腕に自分の手を重ねた沙雪。「……お前が意地を張るから……」 蒼生はベッドにもたれ、うなだれた。薄く笑う。……お前は沙雪を愛していた。きっと、俺を沙雪に紹介した時には、もう既に誰よりも大切に思っていたんじゃないか……?「俺はしがない苦学生ってやつだよ。しかも基礎研究分野だ。この先はせいぜい企業の開発か、ヘタしたらポスドク人生だ。お前とは違う」 間宮はいつも笑っていた。自分と俺を比べて、自分の将来は知れている、と肩をすくめて。「……だけど、そんなことが障壁になるか? 沙雪はお前を愛していた。お前だからだ。……俺じゃない」 肩を震わせて蒼生は笑った。「……愛した女が目の前で他の男に愛されたいと願うのを見ているしかない、その俺の気持ちを考えもしないで」……だから……だから……俺は……。「沙雪、結婚しないか?」 そう言った時の二人の顔。間宮は絶望を隠そうと必死で、沙雪は……ただ驚いて、悲しそうにうつむいて……。「間宮の言う通り。俺なら贅沢も好きなだけさせてやれる。欲しいものは何でも買ってやる。代わりに子供を産んでくれ。一人でいい。跡取りが必要なんだ。悪くない取引だろ?」……間宮、よく俺を殴らなかったな。 込み上げる笑いを蒼生は押し殺した。間宮はぶるぶる震えて。顔を真っ赤にして。沙雪の肩を抱き寄せて、俺に牙を剥いた。「このクソ御曹司! 沙雪をなんだと思ってる?」 そのくらいしかできなかった。二人が愛し合っているなら、俺は身を引くしかない。でも、その前に沙雪の前で間宮の本心を引きずり出したかった。俺なんかどうなっても。「……間宮。お前が言うほど全能でもないぞ。大企業の御曹司なんてのは」 蒼生は体を震わせる。何にもできやしない。自分の心すら自由になら
「……そう……」 射し込む陽の光に照らされた麻奈の頬に、涙が一筋流れ落ちた。 床にくずおれたまま顔を上げない蒼生を、麻奈はしばらく見つめていた。やがて、目を伏せる。「……ごめんなさい。私……信じられない」 こぼれる涙をそのままに、口元に静かな笑みが浮かぶ。「最初から嘘だった。その後も……ずっと嘘を重ねて……。私、あなたを……信じられない」 蒼生は動かなかった。「……でも、一つだけ信じられる。あなたは、沙雪さんを心から愛していたんだってこと」 涙が両目からこぼれ落ちる。「失いたくないのね」 力を失った蒼生の体がぴくりと跳ねた。床に手をつき、蒼生はゆっくりと起き上がる。げっそりとこけたように見えるその顔が微かに横に振られた。「……沙雪じゃない……。失いたくないのは、お前なんだ」 縋るような眼差しで、蒼生は麻奈を見上げた。「……お前なんだ。失いたく……ない」「沙雪さんに似てるから……?」 麻奈がふっと笑う。「違う!」 突然、蒼生が叫んだ。「お前なんだ……!」 力の漲った両手が握りしめられる。全身を震わせて、蒼生は叫んだ。「俺が欲しいのは、麻奈、お前なんだ!」 自分の言葉に驚いたように、蒼生は目をみはった。急に力が抜けて、萎むようにうなだれる。片手で顔を覆うと、蒼生は後ろの壁にもたれた。片膝を立て、震えるもう片方の手で膝を掴むと、微かに笑う。「……わかっていたんだ……。お前は沙雪じゃない。全然違う」 日が昇る。射し込む光が熱を持ち始めた。部屋の空気が温まって行く。新聞配達のバイクの音が小さく聞こえた。カタン、とポストが鳴る。「……走ることが何より好きで、驚くほどに酒が強くて、何かといえば腹が空いて……。いつだって自分のペースで、俺はそれに振り回されっぱなし、思い通りにできたことなんか一度もない」 くっ、と喉が鳴った。蒼生の肩が揺れる。「……守ってるのか守られてるのかもよくわからなくて……ただ……それが可愛くて、抱きしめたくて……。抱いた。俺は何度も抱いた。欲しかった」 片手で覆った蒼生の頬からまた一筋涙







